「ベケットと「まちがい」の美学」 第2部講義メモ
第2期第3回 「ベケットと「まちがい」の美学──よりよく失敗するために」(2024-04-20)
「ベケットと「まちがい」の美学」 第1部講義メモ
01:57:24 第2部開始
前半の最後の問い「ベケットはなぜ『ゴドー』を書いたのか」を後半で解説いただけるかと思います。よろしくお願いします(青山)
不条理とは原因と結果がつながらないことだと説明した。戦争は不条理の最たるものだが、災害、コロナ禍、テロなども理不尽なものとしてわれわれの前にある(岡室)
01:58:59 危機的状況と『ゴドー』
さまざまな危機的状況のなかで『ゴドー』が上演されている
1992年 スーザン・ソンタグによるボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争さなかのサラエボでの上演
賛否両論あったが、サラエボが文化の街であることに対するるソンタグの応答であったと思う(岡室)
2007年 ポール・チャンがハリケーン・カトリーナの爪痕の残るニューオーリンズで上演
2011年
東日本大震災後の日本で上演
かもめマシーンによる福島第一原発から20キロ地点での上演
これは崩壊した道路を劇場と見立てて上演されたんですか?(青山)
こういう場所で上演すべき作品として『ゴドー』が選ばれた(岡室)
02:01:12 ランス・デュアーファード『貧困の芸術』
Lance Duerfahrd『The Work of Poverty: Samuel Beckett's Vagabonds and the Theater of Crisis』
ベケットの作品が世界中のどんな困難な場所で上演されたかを論じた本
修復も治癒も解決も不可能なカタストロフィー本来の性質に(ベケット作品は)呼応し続けている
ポール・チャンもデュアーファードも『ゴドー』を悪化のプロセスを描いた作品と論じているが、それには反論があるので後ほど申し上げる(岡室)
02:02:28 では、なぜ『ゴドー』は〈失敗〉の演劇として書かれなければならなかったのか?
カミュ『ペスト』という補助線を引いてみたい(岡室)
コロナ禍の中で『ゴドー』のことを考えた
カミュ『ペスト』を読み返したら『ゴドー』とつながっていると思えた
『ペスト』と『ゴドー』をつなげて論じている人は他にいる?(青山)
断言できないがたぶんいないと思う(岡室)
影響があったのでは?
ベケットは1946年に「廃墟の都」を書き、その2年後に『ゴドー』を書き始めた
ベケットは1946年にカミュ『異邦人』を読み、重要な作品と友人の手紙に記している(『ベケット伝 上巻』)
『ペスト』刊行は翌年1947年
→ベケットが読んだ可能性が高い
カミュ『ペスト』
ペストによって封鎖されたアルジェリアのオラン市で起こったことをルポルタージュやドキュメンタリーのように克明に描く
ペスト=不条理
02:05:16 mizukingtrp「ベケットの不条理演劇とカミュの不条理哲学」
敗北の文学としての『ペスト』
医師リウーと親友の絆の物語でもあるが、リウーは決定的な敗北感を抱く
02:07:05 entaki「リウーを待ちながらっていう漫画ありますよね」
02:06:39 「ペスト」とは?
ペストは単に感染症を意味しない
タルーのセリフ「僕は、自分が何千という人間の死に間接に同意していたということ…」
第二次世界大戦のことを言っているのではないか(岡室)
戦争を止めない以上、戦争でたくさんの人が死んでいくことに同意している
感染症に限らず、意識的にであれ無意識的であれ人を死に追いやる加害者性がペスト
「誰でもめいめいのうちにペストをもっている」
言葉そのものが暴力性を持ってしまう (「ベケットと「まちがい」の美学」 第1部講義メモ#66362f00e2d05d00006f34d2)ことにもつながりますね(青山)
02:09:33 kinako_「人を傷つけることが失敗なんかなあ?」
タルーは自らも加害者=ペストであることを忘れず、かつ、殺す側ではなく殺される側に立ち続けるべく、ペスト患者の救援に身を投じる
02:09:44 加害者性ということ
『ペスト』リウー:「彼らは実はすでに眠っていたのであり、そしてこの期間全部が深い眠りにほかならなかったのである。」
『ゴドー』ウラジミール:「おれは眠っていたのか?ほかのやつらが苦しんでいるときに。今も眠っているのか?…」
ここに限らず『ペスト』で描かれている思想が『ゴドー』にこだましているように感じる(岡室)
不条理は人間がコントロールできないもののようで実は加害者として加担しうる
→〈待つ〉ことはそれに抗うことではないか?
02:11:39 『ペスト』における〈待つ〉こと
コロナにひきつけてみれば、自粛期間は待ってる時間のこと。コロナが明ける日を待っている何もしてない時間(岡室)
成功失敗という価値観からすると無駄な時間のように思えるが、公共のためにがんばった時間とも言えるのでは
02:12:57 moufu「誰かの変化を待つの大変。でも変えようとするのは加害でもある。」
02:15:26 teppeki77「自分の中であの時間は意味があったみたいに言うのは良いことだと思うけど、「社会の役に立った」は欺瞞じゃないかな」
02:16:45 A_Rigid_Designator「しかし先ほどの話でいうと「待つ」=「黙る」で、ベケットはそれでも話す方法を考える人だったのではないのかな」
岡室先生はコロナ禍では待つという態度でいらっしゃったんですか?(青山)
そうですね(岡室)
『ゴドー』と同じように待っている時間をどう楽しむかという視点はあった
とはいえ、コロナ禍においては自粛警察のように自分たちで「待たなければならない」と規範化していた部分もあると思いますが、どのように考えますか?(青山)
不要不急といういやな言葉が流行った(岡室)
又吉直樹脚本の「不要不急の銀河」というすごくいいドラマがあったが、スナックが舞台だった。スナックは不要不急と言うが、誰が決めるのか
自粛警察もそうだが、ただ待つことに耐えられない人がそうしてしまうのではと思う
ただ待つことは実は強いこと。強い決意に支えられていないとできない
02:18:27 「待つ」ことの意味
タルー「今度のことはヒロイズムなどという問題じゃないんです。(…)ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです。」
人類はウイルスとの戦いに負け続けている。それでも戦い続けることがヒロイックに行動することではなく、待つことだというのが、この『ペスト』という小説の根底にあること(岡室)
待つことは、ヒロイズムや成功や達成や勝利とは対極にある
ここで思い出してほしいのがオデュッセウスのこと(「ベケットと「まちがい」の美学」 第1部講義メモ#66362cd2e2d05d00006f34c9)。西に進む船の上であえて「自分は甲板の上で東に向かって破滅するという自由」を選び取ること
ペストの中で戦った医者の話だというとヒロイックな話に聞こえるが、そうではないということを繰り返し言っている
どうやって自分が加害者の側に行かないかという話。誠実に居続けることと、待つことが密接に結びついている小説
02:20:37 しかし『ペスト』は絶望を描いているわけではない
リウー「天災のさなかで教えられること、すなわち人間の中には軽蔑すべきものよりも賛美すべきもののほうが多くあるということ」
ベケットのルポルタージュ「廃墟の都」結びの言葉
「サン・ローにいた人々のうちの幾人かは[アイルランドに]帰郷する際に、少なくとも彼らが与えたたけのものを得たことを(…)わかってくれているんじゃないか」
廃墟のなかの赤十字病院のきつい仕事の中で昔ながらの人間らしさを見た
ベケットのサン・ローでの経験が『ペスト』と呼応したのではないか(岡室)
困難に陥ったすごく制約された状況での経験が、ベケットの制約された条件での関係性や垣間見える人間らしさを描く演劇につながっていると思いました(青山)
制限された中での自由というのがベケットには重要(岡室)
02:24:28 『ゴドー』は絶望の劇なのか?
『ゴドー』は危機的な状況を描いているとか、悪化のプロセスを描いていると言われるが、世界が危機的な状況にある中で、そんな演劇を見たいか? と思う。だから絶望の劇ではないんじゃないか(岡室)
『ゴドー』と共生の思想
第1幕では目が見えていたポゾーは第2幕では盲目に、第1幕では長いセリフをまくし立てたラッキーは第2幕では口が聞けなくなる
従来の見方:螺旋のように循環して徐々に衰退、死に向かっていく
第1幕では暴君と奴隷の関係だったのが、第2幕では綱が短くなって関係が近くなり、ラッキーがポゾーを支えている
目が見えなくなったり口が聞けなくなるのはマイナスのように思うが、不自由かもしれないが必ずしも不幸ということではない
前半でのなぜ二人かという質問(「ベケットと「まちがい」の美学」 第1部講義メモ#663a1823e2d05d0000b26529)につながる
『文学 2014年 3,4月号』 岡室美奈子「瓦礫の上で待ちながら──ベケットと共生の思想」
「貧困、死、絶望へと向かうその繰り返しのなかで、彼らのわずかな想像力は少しづつ他者へと開かれていくのである。」
徹底的に失うことによってプラスの方向に反転していく世界なんじゃないか(岡室)
東日本大震災の後で別役実さんと平田オリザさんの対談の中で別役さんが「被災者の人たちが悲しみたりてないんじゃないか」とおっしゃっていた
徹底的に悲しむ前に復興や絆のようなポジティブなことに持っていかれる
徹底的に悲しむことによって次に行けるのでは
自分もよく失敗をするが、本当にこれは失敗だったと刻めないと、失敗を失敗と認められないところがある。それには待つことが必要で、時間がかかること(青山)
私達はポジティブ神話に呪われている。ポジティブであることがいいことだと思ってしまいがち(岡室)
徹底的に悲しむこと、徹底的にどん底にいることで反転していくのでは
それこそが不条理に対する一つの抵抗のしかたなんですね(青山)
「二人は考えることで忘却の縁から死者たちを召喚し、その声を聞き存在を感じ取る。想像力によって死者と繋がり、奇妙な言い方ではなるが、死者とともに生きていくるのである」
東日本大震災の後で幽霊を見たという話が出た。それは一度にたくさんの方が亡くなったことで、生と死が断絶として捉えられなくなり、死んだ人も一緒に生きていくという思想が出てきているのではないか(岡室)
テレビドラマでも、怖い幽霊ではなく家族を見守る温かい幽霊が登場した
『ゴドー』にもそういう思想があるのでは
不条理も幽霊のように気づいたらいつの間にかやってきてしまう、繰り返されるというところがあるのでは(青山)
少し話がそれますが、過去のトラウマや失敗の記憶などの自分に取り付いてしまったものの弔いのようなことについては岡室先生はどうお考えですが(青山)
社会には失敗の歴史って重要。個人の失敗は蓋をしたいけど、やはり向き合わないといけない(岡室)
弔うというのは、向き合っていくことだと思う
02:40:15 kinako_「私は失敗を人に笑ってもらうと弔われた気がします」
02:40:20 2014年早大演劇博物館 サミュエル・ベケット展 ドアはわからないくらいに開いている
2011年4月に新国立劇場で『ゴドー』が上演された
真ん中に舞台があり、挟む形で両側に客席があった
向こう岸の観客が幽霊みたい
ウラジミールとエストラゴンも幽霊のようだった
「ドアはわからないくらいに開いている」はベケットからの引用
あからさまな希望ではないが、閉じているわけでもない
絶望の中のかすかな希望
02:42:13 「瓦礫の上で待ちながら」
髙橋悟 退任記念展「ミチガイイイチガイキキチガイ」~Still/Moving:崇仁でゴドーを待ちながら~
「ミチガイイイチガイ」というのはベケットの散文のタイトル
京都市立芸術大学は被差別地域だったところにあえて大学をつくった。その土地の記憶がテーマ
「瓦礫の上で待ちながら──ベケットと共生の思想」を図録に転載
02:44:27 「待つ」とは?
『ゴドー』の二人はただ無為に待っている、不要不急の存在
いいところが一つもない、ひどい目にばっかり遭う人たち
ベケットは『ゴドー』は「共生」の劇だと語った。それは決して加害者にならないという決意でもある
失敗し続ける人たちを描くことで、加害者にならないという決意を書いたのでは(岡室)
負け戦とわかっていても、世界に対していかに誠実であるかということの表明
それは祈りにも似ている
神に対する垂直軸はなくなっているが、かろうじて祈りという形で残っている
「待つ」ことは「失敗」し続けることであり、「祈り」の一形態である。
ベケットにとって、書くとはまだ見ぬ希望の到来を待ちながらあえて失敗し続けることであり、だからこといのりであったのではないだろうか
02:49:34 「まちがい」の想像力について
第2期キックオフ「「まちがい」の本質──ゲンロン・セミナー第2期キックオフ」で、「『まちがい』の想像力」について聞いてみたいという話になった。岡室先生との打ち合わせでは「ベケットはそんなことは言ってない」とのことだったが、最後のまとめではベケットおける「待つ」ことは受動ではなく強い意志によって他者への想像力に開いていくことだとされていて、まちがいを起点にした想像力ということとも言えるのでは(青山)
そうですよね。失礼しました。「間違いの想像力」という言葉の意味を受け取りそこねていたのかと思うが、どういう意味?(岡室)
まちがいそのものというより、まちがいをしてきた記憶や不条理な状況にまきこまれてしまうことを想像力と言っている(青山)
まきこまれることと想像力の関係は?(岡室)
デリダの「差延」のようにコミュニケーションがずれてやってきてしまうというメカニズムが、作品にどのように現れているかということが聞きたい(青山)
私たちはまきこまれていきがち。自分はただまきこまれているだけと思っていると実は加害者になることである。ほんとは西向きの船に乗らいで済めばいいんだろうけど、そうできない中でいかに自分は東に向かう自由を獲得するか。それがベケットの言っていること(岡室)
想像力の力があるから間違えられるということはあるような気がする(岡室)
02:55:22 加害性とどう向き合うか
今日はさまざまなことにまきこまれ暴力性をともなう状況に対して、「待つ」ことで加害者にならない方法を描いた作品として『ゴドー』や『ペスト』を語っていただいた。もう一方の考えとして、その中でなお加害性を引き受けていくという立場もあるように思う。ベケットの美学として加害しない方法論をとっていたことはわかるが、社会のなかで責任を取るような考え方について岡室先生がどう考えるかお聞きしたい(青山)
私たちは生きているかぎり加害者にならないことはほぼ不可能。ベケットにしても「西向きの船に乗る」事自体加害者になることとも言える(岡室)
いかに加害者にならないかということは大事だが、自分の加害者性に自覚的になることはもっと大事かもしれない
言葉を使う以上誰かを傷つけることは常にある。それを自覚しながら書くということが誠実であるということ
それはキリスト教的な原罪のような感覚が現れているのでしょうか?(青山)
それもあるかもしれないが、今現在の問題として、自分が被害者であることにはすごく自覚的だが、自分が加害者でもあり得るということに関しては鈍感だったりもする。だからベケットは普遍的なのだと思う(岡室)
確かに、自分の質問では現実のことを考えて責任をどうするのかとという話になったが、ベケットの何がすごかったのかといえば、一つの芸術作品として問題提起を開いていったことで、さまざまな危機の状況でも参照されるようなものが生まれたということですね(青山)
03:00:06 A_Rigid_Designator「加害に自覚的になるという方が、加害者にならないように生きるということよりピンときました。それがより良く失敗するということなのかなと。」
03:00:51 質疑応答2
03:01:01 質問者E:まきこまれること、加害性、共生の話が面白かった。なんとなく「朝起きたらいきなり虫になってた」奴のことを思い出した。他の人から見ると怖がられたり加害者のように見えているが、本人が言葉を使わずいろいろ考えている。あれを補助線にできないか。
カフカは自分は専門ではないが、なにか通底するものがある気がする(岡室)
『変身』もいきなり虫になっていて被害者のようでもあるが、おっしゃるようにある種の加害性を背負ってしまうようにも思う。そこは面白いしちゃんと考えてみたい
03:02:46 質問者F:ベケットが『プレイ』で演者に間違えさせるような厳密な脚本を作ったという話があったが、演者に間違えさせるというのも加害なのかと考えた。しかしそんな演劇を役者が楽しむのだとしたらどう考えたらよいか。
ある意味役者をいじめているということではある。それは役者に対する信頼もあるように思う(岡室)
むしろ役者自身がそこにいるということを打ち出す芝居。まちがえたときに、役としてだけではなく、その人がそこにいる、現前のようなものがクローズアップされる
まちがいを誘発することで、劇作家が書いた言葉をただ口にするだけではない、新たな観客と役者の関係ができていく
03:05:39 質問者G:『新訳ベケット戯曲全集1 ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』の解説でベケットが喜劇役者が好きで、チャップリンやキートンに芝居をしてもらいたかったと書いていたが、実際に喜劇役者が喜劇として演じた『ゴドー』はあるのか。
あります。例えばアメリカでロビン・ウィリアムズとスティーブ・マーティンがやったのとかがある(岡室)
日本だと星セント・ルイスがやっている
ただ面白いかというと…セントルイスさんはあれだけ面白い人たちなのに超まじめにやっていた。私の訳でやってくれたら…
ベケットの作品の言葉は多義的なので、多義性を重視すると抽象的になる。
たぶんベケットはものすごく具体的なことを書いているだろうと私は思っている。具体的なことは俳優の身体に即したことだろうと思うので、そう訳している(岡室)
私はさまぁ〜ずを念頭に置いて訳した。ボケとツッコミ
ちなみに私はコント55号版が見たかったです(質問者)
ポゾーは高田純次を思い描いて訳した。何を言っても本当に聞こえない人(岡室)
03:09:04 質問者H:『プレイ』の演劇としての設計には、一回性みたいなものを引き出そうとしたように感じる。ベケットは演劇を論じる上で一回性について述べていることはあるか。
ベケット自身が述べていたかは記憶にない(岡室)
アイルランドの批評家ヴィヴィアン・マーシアは「『ゴドー』では何も起こらない。しかも二度」と言っていて秀逸だった
二度と同じ舞台はないというのが演劇のすごく重要なところだが、しかし演劇自体は毎晩毎晩繰り返される。この「差異を含んだ反復」が『ゴドー』の構造そのもの。「一回性」と「反復」という演劇の構造自体を『ゴドー』がなぞっている
03:12:19 質問者I:身体性がベケットにどのように考えられていたかをうかがいたい。あるいは身体と失敗の関係は。
基本的にベケットの作品に登場する人はぎくしゃく動く。ぎくしゃく動くことによって逆に身体性を感じるという逆説もあると思う(岡室)
ぎくしゃくするということは身体がコントロールできないということでもある。ベケットは神のようにすべてをコントロールしたいが、結局コントロールできないものが残っていくし、むしろコントロールできないものをいかに召喚するかということを考えて書いていたと思う
演劇は他者が介在するので、どうしたってコントロール不可能。身体というものを考える上ではかっこうのメディアだった
03:15:06 質問者J:簡単な質問を3つ。1つは岡室先生はこれまでに『ゴドー』を何回見たのか。そしてどれが印象に残っているか。もう一つはこれから私たちが『ゴドー』を見たいときに比較的簡単に見れる映像、再演される可能性があるものなどリコメンデーションをお願いします
『ゴドー』は膨大に見てきましたね。海外のものも含めて数え切れないくらい見てきました(岡室)
アイルランドで見た芝居が印象に残っている
別役実さんが『ゴドー』が面白かったのは構造が革新的だったことだけでなく、村芝居的な前近代の芸能をのあり方に通じるものがあったからじゃないかと言っていた
ノスタルジックなところがある。二人が肩を寄せ合っているような感じがアイルランドに似合う
日本のもよかったが、私の訳でやってくれた多田淳之介さんの(KAAT神奈川芸術劇場プロデュース 「ゴドーを待ちながら」もすごくよかった
年配バージョン(昭和平成版)と若者バージョン(令和版)という2つをつくってくれた
若者バージョンはオリンピックも万博も終わったあとの荒廃した日本が舞台。このバージョンはゴドーを待つこと自体が難しくなっている。ものすごくリアルな『ゴドー』だった
それはぜひ見たいですね(青山)
映像では『Beckett on Film』
アイルランドのゲートシアターが制作したベケットの全作品を映画にするプロジェクト
03:20:43 masakiueta「Beckett on Film - Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Beckett_on_Film 」
03:24:52 質問者K:身体性にからめて、ベケットとアルト―が比較されていることがあれば伺いたい。
あると思うが、私はくわしくないです。すいません(岡室)
「器官なき身体」とかは影響を与えていてもおかしくはないなと思う
尾籠な話だが、ベケットも『クラップの最後のテープ』には便秘の人が出てきたりする。アルトーも排便の痛みみたいなものがなければ「器官なき身体」みたいなことを思いつかなかったのでは
03:26:28 質問者L:学生のころよく宮沢章夫さんの講義に潜り込んでいて、当時聞いていた別役実さんの話やベケットの話を懐かしく聞いた。岡室先生の訳を宮沢さんと遊園地再生事業団でリーディング演劇をされていた時期があると思うが、当時宮沢さんや役者の方がベケットとどう向き合っていたか思い出などあれば。
早稲田小劇場どらま館での宮沢さんの『ゴドー』は、私の訳の刊行前の公演だった(岡室)
未完成の訳での演劇だったので、その経験を活かして修正したものが刊行されている。とてもとても幸せな体験
03:30:05 masakiueta「岡室美奈子訳・宮沢章夫演出『ゴドーを待ちながら』どらま館公演リポート – 早稲田ウィークリー https://www.waseda.jp/inst/weekly/column/2017/12/19/39456/ 」
ベケットはト書きが面白い。通常の演劇では読まれないが、宮沢さんはト書きの面白さに着目して、真っ赤な服を着たト書きを読む人を舞台の真ん中に置いた
ベケットのト書きは無駄に面白いし、無駄にリズムがいい。それも一種の失敗のようなもの
ベケットのリズムは詩人のイェイツの影響もあるのかも
宮沢さんはベケットの軽やかさが分かる人
質問者L:もう1点、スラヴォイ・ジジェクという人がベケットに言及して、市民革命を起こしていくにはよりよい失敗が必要だという話をしつつ、ベンヤミンを引き合いに出してファシズムは革命の失敗によって起こるという話(失敗の否定的な側面)をする。ベケットにとってもファシズムや巨大な政治にどう向き合うかについては人生の大きなテーマであったと思うが、現実政治においてベケットはどのような対峙をしていたか。
革命が失敗してファシズムがおこってくるのはその通りなんだと思う。それは失敗をどう乗り越えるかという話。ベケットは失敗をいかに乗り越えないかということを言っている(岡室)
失敗を乗り越えないのは難しいこと。いかにそこで踏みとどまるかという話が多分「待つ」ということと関わっている
失敗はつらいので癒やしてくれる強いものを渇望する。しかしそれに頼ってしまうと失敗した意味がなくなる。だから「失敗し続けること」が大事
03:34:55 質問者M:待つことは強い人ができることだと思った。ベケットの「待つ」ことは持っている人、強い人の指針なのか。『ゴドー』の登場人物は弱い人たちなのでわからなくなった。
強い決意とか言いすぎてそのように聞こえたのかと思うが、弱いこと、弱いまま待つということが大事(岡室)
3:36:38 entaki 「大豆田とわ子っぽい」
弱いと強いものにすがりがち。そうするとファシズムを受け入れてしまう素地が生まれる。弱いままに耐えることが大事
弱いこともネガティブに受け止められがちだが、そんなことはない。
ベケットが作品を通してそうあるべきと訴えているというより、作品の一貫した美学として弱いままでいることを描いたと解釈しています(青山)
私が今日言ったのは読み取りすぎなのかもしれない。ほんとに情けない人たちなので(岡室)
03:37:39 質問者O:『新訳ベケット戯曲全集1 ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』の訳者あとがきでウラジミールとエストラゴンは作品の中でもメタ的な存在だと書かれていた。翻訳するにあたってメタ性を表現するために工夫したことはあるか。
ベケットは眼の前に観客がいるという現実から離れられなかった人なんだと思う。だから役者にもそこをなかったことにしなくていいとしていた(岡室)
だから楽屋オチのところはそうであることがわかるように訳した
ベケットは後半になるほど言葉が短くなって形式を研ぎ澄ませていくが、それも意識していたことがある?(青山)
ベケットは芝居好きでダブリンでもよく見ていた。その気になれば面白いものを書けたはず。そこをあえて退屈な劇を書いていた(岡室)
なぜベケットは一貫してそんなことができたのでしょう?(青山)
こんなことを言うとブレヒト研究者に怒られると思うが、ブレヒトは叙事演劇とか異化効果とか考えて、観客を演劇に没入させないようにしていた。没入させず批評的に舞台を見ることをさせたかったが、でもブレヒトはうっかり面白く書いてしまう(岡室)
ベケットはそこで踏みとどまろうとした。おもしろく書いてしまうとベケットが『ゴドー』で描こうとしたことは 実現できない。だって世界は解決せず、答えはないから。救世主も簡単にはやってこない
『ゴドー』はどんどん話が切り替わるので意味を汲み取ることができない。でも会話はすごくリズムがありどんどん読めてしまう。終わったあとであのゴドーとは何だったんだろうと問い返すことになる。これが『ゴドー』が広まった要因なのかなと思った(青山)
ベケットはサービス精神旺盛な人。ゴドーはやってこないけど芝居を成立させるために一つ一つの会話は面白くしている(岡室)
不条理劇だからわからなくていいとか、意味がないことをやっていていいという発想は違うと思う
03:47:18 質問者P:ベケットはショーペンハウアーの影響もあると聞いた。反出生主義をベケットはどのように見ていたか。
そのようなことを言っている人はいるが、私はわからないです(岡室)
03:48:16 質問者Q:去年のゲンロンセミナーで第1期第3回「遊びの場としての野外劇──予期せぬ『ノイズ』を取り込む創造のエネルギー」(2023-04-22)という講義があった。『ゴドー』を考える上でも遊び・戯れは重要なのかと思う。『ゴドー』における遊びについてお考えを。
待つ時間をどう過ごすかは遊びと密接にかかわる(岡室)
遊びはそれ自体で目的を持たないこと。『ゴドー』のなかでやることもどこにも向かっていかない。達成、成功、勝敗と関係ないことで、それは遊びの精神だと思う
『プレイ』という作品もある。プレイはいろんな訳があり、高橋・安藤訳では「芝居」になっている。同じことを2回繰り返すので「再生する」という意味でもある気がするが、遊びという意味も込められているようにも思う
03:50:51 フィナーレ
最後に岡室先生からメッセージを(青山)
コメントが面白くて「大豆田とわ子っぽい」と書いている方がいて気になった。いろんな反応をいただいて嬉しかった(岡室)
考えながら喋っている、まだ練られていない生の話なので、これから更新していかないと部分があると思う。これから論文にしていきたいと思うが、この話がベケットについて考えてくださる一つの入口になれば
失敗することが大事だとさんざんしゃべってきたので、この話もなにか失敗しているんだと思う。この失敗を糧にまたベケットについて考えていきたい
今日はありがとうございました(青山)
ゲンロンセミナー次回は第2期第4回「まちがう、ゆえに我あり──認知科学・進化論から考える「まちがい」の合理性」(2024-05-18)です!